閉塞感を感じない、毎日の暮らし方
今日はたくさん会議があったけれど、中にはいくつか、おんなじことの繰り返し、閉塞感をかんじちゃう、という会議もあった。
どうもたこつぼにはまっている状況だったり、運動だったり、っていうのはあるものである。
ところが、ふりかえって考えてみると、私は、だいたい毎日楽しく機嫌よく過ごしている。退屈することも無力感や閉塞感を感じることもあまりない。
だいたい、ぼーっとしていても面白いことを思いついてしまい、それを実現しようと夢中になって毎日が過ぎる。
これは自分の性格の楽天性、というのもあるんだろうけれど、今日など、閉塞感を感じる会議などに出ていると、実は日々やっていることがそもそも面白いんだ、ということに気付く。もしほかの団体の責任者を任されたとしたら、こんなに楽しく過ごせるのか、と言えばそれは疑問である。
不思議なことであるが、ヒューマンライツ・ナウの会議はあまり同じことの繰り返しがなくて、不思議とそういうどつぼにはまった感じがしない。
ヒューマンライツ・ナウは、私が創設に関わって、オーナーシップ意識がある、というのもひとつの理由なんだろうけれど、やっぱり、やっていること自体が正直面白くて、退屈しない、というところも大きい。
面白いことを思いついても、それを思い切り実現できない団体で活動していたら、それはつらかろう。
白いキャンパスになんでも描ける(もちろん国際的人権というフレームワークがあるけれど)、というのがヒューマンライツ・ナウの活動のよいところである。
毎年新しいところに事実調査に行って刻々と事態が変化したり、団体もだんだん大きくなって、トライアル&エラーをしながら、次々に扉を開いて、道を開いて、脱皮して、チャレンジをして、「道が開ける、扉が開かれる」、「求めよ、さらば与えられん」というところがあるからだと思う。
まあ、われながら、自分のやっていることが正しい、よいことだ、と信じられる活動をしていることは、まず第一によいことなのだけれど、加えて、全く退屈することなく、毎日日々新しい情熱を感じながら、活動できるというのは、さらに好ましいことである。
いろいろと大変なことがあるとしてもね!
また、私は「ガーデニング理論」と名付けているのだが、同時並行的にいろんな課題に取り組むようにしている。
よく多方面に活躍してますね、とか言われるけれど、それは私が意図してやっていることなのです。
被災三県それぞれのプロジェクト展開、カンボジア、ビルマ、インド、アフガニスタン、日本、パレスチナ、シリアなど、大変めまぐるしくいろんなことに日々対応して、頭が混乱することもある。それに、女性の権利、えん罪、死刑など、個人的に追及している課題も多い。そして弁護士として日々異なるご相談を受け、事件に取り組む。
しかし、キャパ・オーバーな気がすることもあるが、実はそれが自分には一番よいのだ(ちなみに、これらのなかでヒューマンライツ・ナウの取り組む課題は、もちろん私一人が取り組んでいるのではなく、チームを組んで取り組んでいるし、多くの人はひとつのチームに専念して集中して取り組んでいますのでご安心ください)。
なぜ「ガーデニング」か。
ある時期に限ってみると、進む課題もあればうまくいかない、まったく進まないように見える課題もあるが、全体を見渡せば、どこかで成果が上がったり、よい変化が生じていたりする。
あまりひとつの問題だけ頑張りすぎると「こんなにがんばっているのにどうしてうまくいかないのか」と恨みや閉塞感が生まれるわけだが、同時にやっていると「日照りの日もあれば恵みの雨の日もある」という達観した気持ちになり、全体として楽観的な気持ちになるのだ。
このことは、実はガーデニングから学んだ。
ガーデニングをしていると、きれいに咲いている花もあれば、しぼんでいる花もある、しかし、それは永遠ではなく、先週までしぼんでいた花が元気になったりする。
だから、それは深刻に悩むより、ゆったりと毎日水をあげて気長に待っているうちに花が咲く、ということもあるのだ。それを深刻に神経質になりすぎて、肥料や水をやりすぎたりするとうまくいかないものだ。
寛大な気持ちで、成長する子どもを見守るように接していくと、いつか花を咲かせる時が来る。
事件も同じ。人権課題も同じだと思う。
いつも庭の花に、美しく咲き誇っているときもいまいちくすんでいるときも、変わらず同じ愛情を注ぎ続け、長い目で成長を見守るように、ひとつひとつの人権課題や手がけている事件にも力を注いでいけば、今は苦しくても、いつか花が咲く日がくると、私はいつも信じているのです。
だから閉塞感を感じない、ということもあるのかもしれない。だから寛大な気持ちになる、ということもある。
えん罪や死刑など、とても執念深いところもある私だけれど、全体として健全な精神をもって生きられるのは、そんなことに心がけているからではないだろうか。
また、日本だけでなく、世界中のさまざまな問題に取り組んできたからではないかと思う。
確かにアメリカに留学する前、私は日本の社会がなかなか変わらないことにうらみを持っていたかもしれない。
日本だけ特殊な気がして、日本に生まれて不幸だと思ったりしたけれど、他の国の人たちに会ってそんな考えはなくなった。自分の置かれた立場を相対化することができるようになったのだ。
いまも、理不尽な思いをしているのは私だけではない、世界中が人権問題を抱えているのだ、あんな深刻なところでも前向きに活動している人達がいる、というようなことにいつも学んでいることも大きい。
だけど、最近は、特に脱原発で若い人も毎週金曜日に集まるデモ、このような日本における新しい市民の運動の目覚め、というのは、とても私を励ましていて、いつも以上に精神的には健康な気持ちなのだ。
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