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2011年11月26日 (土)

私と「犯罪」

子どものころから、想像力たくましい子ども、というか、小説の読みすぎ、ニュースの見すぎだったのか、自分のなかに「魔物」がいるような気がして、いつかそれが暴走し、破滅の時を迎えるのではないか、と恐れていた。

例えば永田洋子さんのような政治的犯罪、伊藤素子さんのような経済犯罪、などの報道をみるにつけ、子ども心に「自分も将来あのようなことをしてしまうのではないか」と恐れおののいたものだ。また中島みゆきさんの「道に倒れて誰かの名を呼び続けたことがありますか」という歌を聞いて、男に捨てられ続ける絶望の人生、というのもあることを知り、恐ろしかった。

ただ、どんなに恐れても、破滅というのは、あんぐりと口をあけて、私を待っているような気がした。今にして思うと馬鹿げた話だけれど。

その後、そのような恐れはきれいさっぱりなくなったのだけれど、司法試験の浪人をしていたころは、まさに崖っぷち、「このまま、合格せず、精神的なプレッシャーに負けて、おかしくなってしまうのではないか」などと考えたりしたものである。再び、破滅があんぐりと口をあけて待っているような、、、。精神的にあと一年浪人がつづいたらたぶん持たなかっただろう、と胸をなでおろす。

ところが、そうして司法試験に受かると、すぐに対峙するのは「人が人を裁く」ということであり、刑事裁判の法廷などに向き合ったり、刑務所に見学に行ったり、検察官に代わって人を取り調べたり、弁護活動を手伝ったりするようになる。

そこで、不思議だったのは、私と同じ立場の司法修習生が、どちらかというと心情的に裁判官や検察官に同化して「上から目線」で犯罪を犯した人をみる、ジャッジメンタルな態度だった。

私はというと、不思議なことにその真逆だった。激情に駆られて、道を踏み越え、過ちをおかし、人生を棒にふってしまう人、過酷な人生の日々に、限界まで我慢し続けてきたのに、あるときぽきんと心が折れてしまった人、特に女性をみると、裁くどころか、「もし自分が彼女の立場だったら」と考えてしまい、心が痛むのだった。

誰をみても「ああ、私も一歩間違ったらああだったかもしれない」「あの人には私に似ているところがある」なんて感じてしまうのだった。(そのような気持ちになる経緯については、もちろん浪人生活というだけではないわけですが、ま、この短いブログでは言い尽くせないことも当然ありますよね)

なので、初めて女子刑務所の見学をしたときはあまりにもショックを受けてしまい、夜も眠れなかった。刑務所に入って過ごさなければならない女性たちの人生について考えると言葉を失った。もちろん犯罪を犯したのは本人が悪いものの、そうさせてしまった何か、を考えないわけにいかなかった。

この間まで浪人という地獄にいたのに、まんまと脱出して「一抜け」した自分が、彼女たちと同じ立場を共有していないことに、申し訳ないような気さえしたのだ。

私がこだわってしまった事件のうちのひとつがタイからきて売春を強要されてボスママを殺害した女性たちの「下妻事件」であり、その後タイに通い、今の仕事につながっている。しかし、そのような社会的背景のない無名な事件も多々みて、身につまされてきた。

そのようなわけで、犯罪をおかしてしまった女性に対して、決して同情ということではなく、なんとなく分身のように思ってしまう心情が私の中にときどき働く。

被害者という立場ではあるけれど、中村うさぎさんや、桐野夏生さんが、東電OL殺人事件の被害者の方について分析をした論評や小説や書いているが、たぶん同じような心情をお持ちになったのではないだろうか、と思ってしまう。

この理不尽な、女性に過酷な、ジャングルのような世界に生きて、みんな一歩手前のところで踏みとどまっているのではないか、と思ったりする。

何も悪いことをしていないのに犯罪の被害にあってしまう、被害者の方々の心情ももちろん代弁してきた。特に暴力の犠牲にあう女性たちのために。

しかし、犯罪を犯した女性たち、常識的な道を踏み外してしまった人たちの人生にはどうしても看過できないもの、悲しみがあると思うことが少なくない。

だから、なんとか立ち直っていい人生を生きてもらえないだろうか、と思い、なんというか他人ごとではない。

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