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2010年9月12日 (日)

なぜ無実の人が真実を。。。

厚労省元局長事件は、予想通り、9月10日、無罪判決が出た。

日弁連でも会長談話を出したようだが

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/100910.html

検察にはこの件に限らず同じような手法を使ってきたのだから、この件だけではない、捜査手法全般に対する見直しと反省が迫られているといえる。

しかし、これまでこうした事件は幾多あっただろうに、無罪になかなかならず、検察操作の問題点は白日の下にさらされてこなかった。

今回は何が違ったのだろうか。

ひとつには刑事裁判を取り巻く環境の変化だ。裁判員制度導入を受けて、裁判所もこれまで以上に供述証拠の取り扱いに慎重になっていることの表れだろう。あまりに供述調書を信じてばかりじゃ裁判員の手前恥ずかしい、という心理が裁判所のなかで働くようになってきた。

そしてこの変化は、これまで、「調書偏重の刑事裁判はおかしい」と思いながらやむなく大勢に従ってきた裁判官が、勇気を出して供述調書に厳しい判断をするなど思い切った公正な判断をしやすくする環境を作り出したということもできる。その意味で裁判への市民のチェック機能の影響というのは大変大きなことなのである。(というのも、これまでの常識では、供述調書を証拠採用しないというのは考えられないことだったのだから)。

もうひとつは、当然ながら、村木元局長が検察捜査に屈しなかったということが、無罪を可能にした。江川紹子さんが最近の週刊文春に「村木さんはなぜ、無罪を主張し続けることができたのだろうか」と文書を寄せていて私は感銘を受けた。

  刑事被告人になり、孤立し、何の責任もないのに人生の思うようなルートから突然外れてしまい苦境に立たされる、そんな状況で強大な検察権力と対峙する、そんななかで無罪を主張し続けることができたのは、心から信じくれる人々の存在、家族や子どもの存在、そして彼女自身の強さがあったことがよくわかる。

 しかし、逆に言えば、そうしたことひとつひとつがどれか欠けたなら、無実でありながら自白に追い込まれてしまうことは十分にあり得たのではないかと思う。

 私は米国文献「なぜ無実の人が自白するのか」を翻訳・出版したのだけれど、

http://worldhumanrights.cocolog-nifty.com/photos/my_books/41wju2cbdll__sl500_aa240_.html

実は無実の人が突然被疑者として扱われ、取調べを受けて自白に追い込まれてしまうのはむしろ普通なのかもしれない、むしろ無実を貫けるほうが例外的- つまり江川さんのいうように「なぜ無実を貫き通せたのか、その強さはどこからきたのか」というほうが興味深い、注目すべきことだ、ということなのだ。

 「なぜ無実の人が真実を全うできたのか」 こそが取調べの心理学として驚嘆すべきことだということになる。

 本件では取調べメモが廃棄されていたことが、供述の信用性否定の方向に働いたのも注目に値する。最高裁は近年、三つの注目すべき判例を出して、取調べメモを弁護側に証拠開示するよう検察に命じた。取調べの過程を透明化するためだ。ところが、こうした判例が出ると、取調べの過程を知られたくない捜査側が取調べメモを破棄してしまう、というやり方で証拠隠滅するのは当然予測されたリアクションだった。ところが、それが今回裁判所によって、供述の信用性を否定する判断につながったのであり、画期的である。

こうなると、捜査側は、取調べメモに重要なこと、本質的なことは書かなくなるかもしれない。とすれば、いよいよ取調べを全面可視化するしかないということになるだろう。

 

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