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2008年10月11日 (土)

裁判員制度。「延期」ではなく「見直し」の努力を。

来年5月に導入が予定されている裁判員制度について、最近、以下のような論文を発表しました。

長いですけれど、全文掲載します。みなさんはどのようにお考えでしょうか? 


裁判員制度の「延期」ではなく、「制度見直し」の努力を

                         弁護士  伊藤和子

1 裁判員制度に関して、複数の野党が、「延期」「延期も含む再検討を」などとする見解を発表し、少なからぬ衝撃を呼んでいる。国会が一度は決議した裁判員制度について、何らの課題も方向性も示さないまま、無期限延期を決めて、再び刑事裁判を職業裁判官に白紙委任するとしたら無責任な話であり、私はそのような延期論には賛成できない。
しかし、様々な疑問や懸念のあるなか、「決まってしまったのだから三年後の見直しまでは我慢してとにかく施行しよう」と突き進んでよいのか。
先日、裁判員制度に関するテレビの討論番組に参加する機会があり、識者の見解に接するとともに、その後に視聴者の方や市民から送られた感想・意見に多く接する機会があった。特に深夜を押して長時間の番組を見る熱心な市民の方々からの懸念表明を読んで、国民の不安や反対は決して根拠のないものではない、と感じた。多くの国民は真剣に考えて懸念しており、その疑問に応えないまま、表面的な広報キャンペーンをしても問題は解決しないだろう。
 裁判員制度は、制度設計段階における日弁連の当初要求からみて著しく不十分なものにとどまっており、冤罪防止のための条件整備も進んでいない。さらに問題なのは、法律の条文を離れて、裁判所主導で運用に関する既定路線が形成されつつあり、制度が大きく歪められていることである。
まだ、施行まで時間は残されている。これを機会に、臨時国会や来年の通常国会で十分な審議と国民的議論の時間をとって、必要な修正を実現し、かつ、運用に抜本的な見直しを迫っていくべきだと切実に思う。問題は多々あるが、ここでは最近もっとも懸念している点に絞って述べたい。
2 量刑について
死刑・無期を含む事件を対象とする裁判員制度下で、国民は死刑・無期という人の生死・運命に関わる判断を多数決で強いられるが、このことが国民の負担感の最大の要因となっているようである。「証拠に基づいて有罪・無罪を決めるならよいが、人の一生を左右する死刑か無期かの判断を、何を根拠に決めればよいのか」という懸念が極めて多い。しかも、量刑は原則単純多数決とされており、死刑にどんなに反対の者がいても(死刑廃止論者でも)、死刑判決が合議体全体の結論として出される。そういう職業と知りつつ職業選択の自由により職業裁判官となった者なら格別、そのような選択をしていない市民に、一生そのような十字架を背負わせるというのは過酷な負担ではないか。
先進国で未だ死刑を維持しているのは米国と日本だけであり、欧州では市民が死刑判断に参加する余地はない。米国でも陪審は死刑事件においては、全員一致で有罪評決をし、かつ、全員一致で死刑と判断したときだけ死刑評決が出される(米上院は今年、陪審12人中10人が死刑に賛成すれば判事は死刑を決定できる、という法改正案を否決したばかりである)。市民参加で多数決により死刑を決める、というのは世界的に異例な事態である。
また、日本では死刑に関する議論は成熟しておらず、冷静な議論が成立しているとは到底いえない。昨年の国連総会は、死刑執行停止を世界に呼び掛ける決議を賛成多数で採択したが、政府はそのような国際的潮流すら裁判員となるべき国民にまったく周知していない。(むしろ最高裁は、明らかな死刑廃止論者は裁判員から排除するとしているhttp://www.courts.go.jp/saikosai/about/iinkai/keizikisoku/pdf/07_05_23_sankou_siryou_05.pdf)。こうした状況のもとで、何のよって立つべき基準も示さず、「死刑については市民の常識に任せよう」と、無作為抽出された市民を矢表に立たせるのは無責任である。裁判員の責務から量刑判断を外す法改正は是非とも実現すべきである。
3 「審理は原則3日以内」という運用の危険性
 最高裁は、普通の人が抵抗なく参加できるのはせいぜい3日だ、として、3日以内にすべての立証を終わらせることを前提に、当事者双方に争点を徹底的に絞り込ませ、立証も大幅に制限する方針のようである(司法研修所編「裁判員制度の下における大型否認事件の審理の在り方」参照)。裁判員法には何ら規定がないのに、いつのまにか、すべての裁判員裁判を超短期審理で行うことが既定路線になろうとしているようだ。
しかし、極刑が予想され、有罪無罪が徹底して争われる事案について、事実審理、量刑審理、評議・評決のすべてを3、4日で終わらせる、というのは暴論である。そのために必要な立証が大胆に制限され、防御権は著しく侵害され、真実発見に反する結果になる重大な危険がある。また、事実認定に関する評議も、量刑判断も、全員一致をめざすどころか、「皆さんに早くお帰りいただくために」議論を尽くさないまま多数決評決となって終わる危険性が高い。
 実は、市民の懸念のなかにはこのような短期審理で判断を迫られることへの危惧が少なくない。制度に反対、または参加したくない、という市民の意見のなかには、「3,4日で有罪無罪も、刑も決めるというが、そんな時間で人の一生を左右する判断をするのは無責任だ。そんな恐ろしい裁定には、加わりたくない」「冤罪も増えるでしょう」という趣旨の批判が目立った。本当に誠実に刑事裁判に関わろうとする市民であれば、人の生き死に関わる問題を拙速に決めたくない、たとえ時間がかかっても丁寧に関わりたい、と思うはずではないだろうか。3日以上は集中力が続かないだろう、などというのは国民をばかにした考えだと思う。
 最高裁はおそらく、米国のたいていの陪審裁判が3日程度で終わる、という前提でこうした方向性を打ち出したのであろうが、前提に大きな誤りがある。米国では重罪・軽罪の如何を問わず、争いのある事件が陪審となる。ところが、殺人事件で否認し有罪評決まで進むと死刑の危険があるため、認めて司法取引で終わる事件が少なくなく、殺人事件で陪審に移行するケースはそれほど多くない。そして、真剣に無罪を争う殺人事件では、数週間ないし数か月かかる例が多い。それでも対応できる、という人に、陪審員になってもらうのであり、それで十分成り立っているのだ。一方、南部の州では、死刑事件でも2日程で結審することが少なくないが、これは貧しくて私選弁護人を雇えない黒人の被告人に不熱心な国選弁護人がついて、必要な立証をしないためであり、こうした拙速裁判では冤罪が続出して大きな社会問題になっている。
 私は米国で多くの冤罪事件を調べたが、冤罪は陪審に必要な情報が与えられないときに発生していた。ある米国の冤罪事件では、検察官が被告人に有利な証拠を開示せず、真実から陪審が遠ざけられたまま有罪・死刑の評決がされ、雪冤まで多年を要したが、「必要な情報を与えられないまま誤った死刑判決を出すこととなった陪審員たちは深く悩み、傷ついていた。彼らも冤罪の犠牲者だった」(元死刑囚の発言)という。今導入されようとしている超短期審理により、裁判員に必要な情報が与えられず、審理が尽くされず、納得もいかないまま拙速な判断を迫られることになれば、被告人も裁判員も冤罪の犠牲者になる危険がある。このような運用の方向性には、強く反対すべきだ。
4 「無罪推定原則の徹底」はされるのか。
米国の陪審制度では、無罪推定原則が判断の根本原則として陪審員に幾度となく徹底されている。裁判官は、公開法廷において繰りかえし無罪推定について説示を行い、陪審員選定手続においてもこの原則に従えるか、と陪審員に問い、従えない者は公正な裁判ができない者だとして不適格排除される。
ところが、裁判員制度ではどうか。そもそも裁判官による公開法廷での説示がなされず、評議中に裁判官が裁判員に説明を行う(裁判員法39条)こととなっていて、密室でどのような説明がされるかを知ることもできない。
昨年、最高裁刑事規則制定諮問委員会は、評議での立証責任などに関する裁判員への説明に関して、「法39条の説明例」という文書を作成・公表したが、そのなかには無罪推定、「疑わしきは被告人の利益に」の原則へ言及が全くない。(http://www.courts.go.jp/saikosai/about/iinkai/keizikisoku/pdf/07_05_23_sankou_siryou_03.pdf)。この「説明例」によると、裁判官は、立証責任について「証拠を検討した結果,常識に従って判断し,被告人が起訴状に書かれている罪を犯したことは間違いないと考えられる場合に,有罪とすることになります」と説明すればいいという。最高裁は、裁判員選定過程における質問例も作成して公表しているが、これにも無罪推定に関連するものはない。これでは無罪推定の徹底どころか、裁判員は、「疑わしきは被告人の利益に」という言葉を裁判官から一度も説明されないまま、判断することになろう。上記説明例では、被告人を有罪とするストーリーと無罪とするストーリーのうち、常識で判断して合理的なのはどちらか、というような、「合理的疑い」よりはるかに低い立証責任で、有罪・無罪が判断される危険性がある。私は、弁護士会の模擬裁判の評議を評価する役割を経験したが、評議では、市民から「(理由をあげつつ)有罪というストーリーのほうが無罪というストーリーよりも腑におちるので、有罪」など、無罪推定原則をまったく履き違えた意見や、直観的な有罪論が展開され、それが誰からも修正・訂正されないまま、評決になだれこみ、過半数で有罪、という評決をいくつも見た。上記のような説明では、こうした由々しき事態が現実に起こることを回避できない危惧がある。また、99%の有罪率を前提とする裁判官の事実認定のあり方を転換するのも困難であろう。
「疑わしきは被告人の利益に」が刑事裁判の鉄則であるということは、1975年白鳥決定で最高裁自らが判示したものである。裁判所からの裁判員候補への質問や公開法廷での説明に、無罪推定原則をきちんと導入させるよう、迫っていかなければならない。
5 このほか、取調べの全面可視化が実現していないこと、守秘義務と罰則規定、開示証拠の目的外使用など、問題は山積している。審理期間の問題や無罪推定の徹底などの運用問題も、個々の弁護士の戦いでは限界がある。「無条件延期」でもなく、「無条件実施」でもなく、この機会にもう一度国民的議論を尽くし、必要な改正を実現させ、誤った運用の方向性を正面から問題とし、是正を勝ち取る、ぎりぎりの努力をする姿勢に立つべきだと考える。

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